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さて、当クラブが「ニュー・セントアンドリュースゴルフクラブ・ジャパン」の名称のもとに、特異な紋章を使用しているのは何故かという問題ですが、これには創設者・浜田善弥氏のゴルフに対する思い入れの激しさとセントアンドリュースのザニューゴルフクラブの元キャプテンであった故イアン・ジョイ氏の日本への深い理解を抜きにして語ることはできません。つまり浜田構想では、ゴルフの原点はセントアンドリュース・オールドコースのリンクスにあり、それを日本に再現させることでありましたし、イアン・ジョイ氏はそれを歓迎し、協力を申し出てくれたからであります。
記録によると、昭和47年(1972年)現在地にゴルフ場の建設を目論み、用地の買収を進めていた浜田氏は、スコットランのセントアンドリユースにイアン・ジョイ氏を訪ね、その趣旨を説き、同氏を介し市議会に対して「ニュー・セントアンドリユース」の名称使用とその紋章使用の認可を申請しますが、市議会は同年6月5日これを全員一致で認可します。
一方、浜田氏はニューコースの設計監修を、ゴルフの原点の再現にはジャック・ニクラス氏を置いて他にはないとし、その内諾を得ていたのでありましょう。
同年7月8日には早くも現地において盛大な起工式を執り行ない「セントアンドリュースの姉妹コースをここに建設し、日英米三国共同のもとに世界有数のゴルフ場を現出させる」とその席上で謳い上げているのであります。
事実、工事はニクラス事務所の関係者多数が来日し、またニクラス氏自身も3回に亘って来日すると直ちに現地に飛び、工事の進捗状況を点検するなど並み並みでない熱意を傾け、建設業者に強い感銘を与えました。
なお、コースの造形が整いその全容を現わすのは、昭和49年(1974年)夏のことですが、その最終チェックでニクラス氏はアウトコースの大幅改訂を提言、為に工事は大きく遅れますが、これは氏のコース造りにかけた拘りの激しさを示すエピソードとして記録されています。
従ってメンバーが待望したニューコースのオープンは、昭和50年(1975年)にずれ込み、式典は同年5月10日の挙行となりました。つまリ25年前のことであります。
当日は、セントアンドリュースから市長代理として市議会議員でR&Aのメンバーであるキース・マッケンジー氏夫妻、イアン・ジョイ氏夫妻、後に一時専属ツアーリングプロとして名を連ねるトム・ワイスコフ氏夫妻ら関係者多数が出席し、大田原市からは市長・三森光夫氏も臨席して華々しく挙行されました。
またこの日、オールドコースの鍬入式も同時に行われています。
そして翌年(1976年)6月にはメンバーによる第1回月例競技が開催され、11月22日にはジャック・ニクラス、トム・ワイスコフ、ペン・クレンショー、ヒユーパート・グリーンの4大プレーヤーによるゴルフ・スぺクタキュラーが行なわれ、その模様はテレビで全国放映されて知名度を−気に高めることになるのです。
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